仁義なきキリスト教史 感想

仁義なきキリスト教史

架神 恭介 / 筑摩書房


 まがりなりにも、著者のサイトと相互リンクしているこのブログで感想書くのも、どうなんかな~? と思っていたのですが、ネットで検索しても自分のそれと合致している感想がないのだから仕方がない。そもそも、感想とか書くためにこのブログを作ったわけであるし。


 さて、僕がキリスト教に対して抱いているイメージといえば、「日常に潜むUMA」である。
 僕も平均的日本人の一人として、ホーム・アローンやダイ・ハードを肴に酒と料理をむさぼり、イイ感じに出来上がり次第就寝するキリスト教の一大イベント、クリスマスは毎年かかさず堪能しているし、米国大統領が就任する時に聖書へ手を置いてると聞いて「なんだか知らないけど大仰だなー」という感想を抱いたりしている。
 上京してからは、ごく稀に街中をキリスト教の宣伝カー(?)が選挙演説よろしく神の救いがどうのこうのと講釈たれてるのを見ており、総じて「確かに日常のどこかへ存在しているのだが、なんだか得体の知れない存在」という印象である。

 そしてもうひとつ、僕がやくざに対して抱いているイメージといえば、これもやはり「日常に潜むUMA」である。
 こちらに関しては、ひとつ笑い話があって、僕が学生時代にバイトしていたレンタルビデオ店に、毎週かかさず幼い孫を連れて来ては他愛ないアニメーション作品を借りていく温厚そうなお爺さんがいた。
 その日も、ニコニコ顔の孫を連れている彼の会計を済まそうとしていたその時である。
 突如として、白い特攻服(?)を着た坊主頭のにーちゃんが店内に突入し、
「おやっさん! $%$%#&#%|$&%!(大声でがなりたてているため何言ってるのかよく聞き取れなかった)」
 などと、そのお爺さんに向けて叫び、一礼して見せたのである。よくよく見ると、その服の胸元にはなんだか赤い模様がついている。
 引きつる僕、引きつるお爺さん、やはり引きつる周囲の一同、よく分っていない感じで会計後に小さい子供へあげる飴を待ちわびているお孫さん。
 坊主頭のにーちゃんとお孫さんを除き、その場にいる全員は『空気読めよ……』と思っていたことであろう。
 ちなみに、そのやくざかはたまた類似する暴力組織の偉い人だったらしいお爺さんは、その後も変わらず孫と来店してはアニメーション作品を借りていた。なんとなくなかったことにするつもりのようなので、僕としてもそのように対応した。
 そんなわけで、やくざに対して抱いている印象もまた、「確かに日常のどこかへ存在しているのだが、なんだか得体の知れない存在」というものなのである。


 そんな二つの日常偏在型UMAを悪魔合体させた著者の手腕は見事なもので、両者の持つ暴力的因子を上手く融合させ、キリスト教の勃興史であり、また、やくざの暗闘でもある物語を軽妙な語り口で描いて見せている。

 特に面白いのは「第4章 パウロ――極道の伝道師たち」のくだりで、純真無垢ではた迷惑な侠気を持つ男パウロの向背と、組織の宿命として金を求めずにはいられないキリスト組の現実、そして陰謀とがないまざりとなり、見事な極道キリストストーリーを形成している。
 現実のやくざにおいても、厄介な性格をしているが集金能力に長けたやくざがおだてあげられ、使いつぶされ見放されるというのはいかにもありそうな話だ。僕はこここそが、キリスト教とやくざとを最も上手く結合させ、昇華させたパートであると思っている。

 そして残念ながら、その後のパートはちょっと尻すぼみというか、キリスト教とやくざとがいまいち上手く噛み合っていない感じがしてしまうのが、本書における欠点なのである。


 その理由は単純明快で、「第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影」から先は、キリスト教がローマの国教となってからの歴史に触れている。
 要するに、話が大きくなりすぎてしまったのだ。

 なるほど、確かにキリスト教もやくざも日常に偏在するUMAであることに違いはない。しかし、両者のUMA性には決定的な隔たりがあって、単純に規模が違いすぎるのである。
 キリスト教が時に世界中を巻き込むワールドワイドUMAであるのに対し、やくざの方は地域密着型というか、都市型のUMAだ。
 この規模の違いが何を引き起こしたかというと、作中におけるキリスト組やくざの行動が、あんまりやくざっぽくなくなってしまったのである。

 第5章以降のストーリーを簡単にまとめると、「ローマ帝国を巻き込んだキリスト組内部抗争」「叙任権をめぐる国王とやくざの政治闘争」「金欠やくざたちの都市略奪」「ルターによる国家規模のキリスト組内部抗争」と、このような形になる。

 いずれも国家規模の動きを描いており、それがどうも、都市生息型UMAであるやくざのイメージにそぐわっていないと僕は感じてしまったのだ。

 実際、これらの章はキャラクターの喋りは広島弁であるし、キリスト教における役職をがんばって極道のそれに当てはめてはいる。そして実際に面白い。だが、この面白さはどうも、任侠ものとしてのそれではなく、キリスト教史のトリビア紹介的な面白さであると感じられてしまう。

 特にその性格が強いのは、「第7章 第四回十字軍」のくだりで、これなどはもうほとんど単なる「十字軍の中にはこういう面白い境遇を辿った人たちもいるんですよ」というトリビアパートである。そこに、任侠ものとしての面白さが付加されているかと問われれば、小首をかしげる。

 ここは、著者の生真面目な面が出てしまいすぎたというところか。実際、あとがきで著者は「留意点として、本書は小説作品であることを明記しておく」「本書を読まれて、もしもキリスト教に興味が湧いたという人がいるならば、続けて諸学者のテキストを読まれるとよろしかろう」「読者諸兄をそこまで導けたなら、ゲートウェイとしての本書の役割は全うできたと言えるだろう」などと述べている。気にしていない風にしていているのに、はたからは気にしている感出まくりな地獄のミサワの如き態度である。

 僕個人としては、ここはもうひとつエンタメ作品として一歩踏み出て、例えば「ヨーロッパ町に根を張るキリスト組というやくざが、同じくここを根城とするイスラム組と抗争に明け暮れており~」という具合に、やくざデフォルメを加えてもよかったのではないか、と思う。

 なるほど、4章までの、キリスト教が一新興宗教に過ぎなかった時代を描くぶんには、そのままやくざへ当てはめるだけでよかった。
 しかしながら、その先、キリスト教の規模が一気に膨れ上がる時代を描くには、やくざという型枠は少しサイズが小さく、それに合わせての加工が必要だったのではなかろうか。


 そのため、どうにも竜頭蛇尾というか、終盤へ進むにつれて本書独自の面白みが減じられて感じるというのが、やや残念なところだと思えてしまった。


 ↑僕に書ける精一杯の「書評っぽい文章」。

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by ejison2005 | 2014-04-14 19:32 | ノベル